来年に向けて 三好邦夫伝道師 |
いよいよ令和元年が終わり新年になります。今日はヨシュア記24章ですが、まさに時代の変わり目を表す箇所です。今日の聖書個所の場所は、新約聖書ヨハネ4章のサマリアの女の舞台と同じところです。しかし時代は千年以上も前になります。モーセの従者だったヨシュアが自分の時は終わり次の世代に引き継ごうとします。そこであらためて神とイスラエルの民が約束をします(シケム契約)。モーセもヨシュアも神の驚異的な業を目の当たりにしてきました。言わば見えるものを信仰した時代でした。しかしこれからは違います。見えないものを信じる信仰の時代を迎えるのです。葦の海が割れた話もモーセが十戒を神から授けられた話もすべてが昔話になっていくのです。その昔話を信じる信仰の時代を迎えます。それは今の私たちと同じです。新しい年を迎えようとしている私たちにふさわしい聖書個所として私は聖霊に示されました。
さてヨシュア記24章では神はヨシュアを用いてイスラエルの民にあえて信仰の選びのチャンスを与えます。「あなたがたの先祖たちが川の向こう、およびエジプトで仕えた神々を除き去り、主に仕えなさい。もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、今日選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える。」(新改訳ヨシュア記24:14,15)
このようにイスラエルの民の信仰が少しも定まらないことに対して神は信仰の選択を民にせまります。イスラエルの神が真の神であり唯一の神であるとは迫らずに民のいしによって真の神への信仰を選び取らせようとしています、それも「今日」です。この「今日」は「直ちに」ということです。24時間あるという意味ではありません。「すぐに」自分の「意思」で選びなさいということです。さてここで新約聖書のメシア受胎告知の場面を思い出してください。マリアが聖霊によって主イエスを授かると大天使に告げられた時、彼女は「御言葉どおりに、この身になりますように」と応えています。これは大変な決心を即座にした場面です。彼女はその言葉の前に自分を「主のはしためです」と言っています。これはただの謙遜からでたことばではありません。「はしため」とは召使いや使用人を指す言葉で、けっして奴隷ではありません。この場面の「わたしは主のはしためです」を意訳すれば「私は身分の低い者にすぎませんが、自らの意思で主の御心や御言葉に従います。聖霊が宿してくださるメシアの母になります」という素晴らしい信仰の決心を表しています。「まだ未婚です。年も若く、そのようなことはしばらく考えさせてください」ではないのです。まさにヨシュア記24章でイスラエルの民に真の信仰を迫った神の「今日(ただちに)」で、彼女は信仰の決断をしたのです。そして神の栄光を輝かせるお役をいただいたのです。
さてビートルズのポール・マッカートニーの歌に「Let it be」という歌があります。この歌詞の和訳のほとんどが「そのままでいい」「わるがままでいい」ときには「自分の思うままでよい」と訳されています。しかしこの{Let it be}は英語の聖書(RSV)ではマリアが「御言葉通りにこの身になりますように」という場面で使われている言葉です。世の中の英語訳はまさに世の中を表しています。神の御心も御言葉もなく自分中心なのです。しかしクリスチャンにとって「Let it be」は神様の御心のままに、御言葉に従いますという信仰の生き方を表しています。同じ言葉なのに世の中とクリスチャンはとらえ方が違います。わたしたちクリスチャンは、特に欠けだらけの私などは「現実はキリストの教え通りにいかないよね」とか「現実とクリスチャンの理想は違う」とか、とかく現実が神よりも先に来ます。言い換えれば現実や世の中が「わたしの主」になっています。しかし新年からは日々「Let it be」の言葉を吟味して現実や世の中という言葉や言いわけを「わたしの主」にしないように生きてみましょう。現実は神を変えることはありませんが、神は現実さえ変えてくださるお方です。神優先、神第一の生き方によって、むしろ現実や世の中が変えられます。
お祈りいたします。