2019年 06月 23日
静まって、知れ 三好邦夫伝道師 |
中心聖句 「詩篇46:10 「静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちにあがめられ、全地にあがめられる」。」(口語訳聖書)
初めて自分で聖書を読み始めたとき、多くの方が新約聖書の福音書、あるいは創世記1章1節からお読みになるのではないでしょうか。四福音書は手垢のつくほどお読みになられても、そして長いクリスチャン生活をしていても、教会の礼拝メッセージでもなければご自身で聖書の詩篇を味わう方は少ないのではないでしょうか。主イエスは自らメシアであることが聖書の中で証しされているとお話になったとき「モーセの律法、預言者の書、そして詩篇」をおあげになりました。(ルカ24:44)それほど大事な聖書の箇所でありますが、やはり詩ですから、内容が抽象的であったり、理論的に筋道の通った読み物ではないのでわかりにくいところです。また本来、メロディーがあり奏楽の伴奏のもとに歌うものですから、メロディーも奏楽も無ければあまり面白くないのは当然です。それでも詩篇には味わい深い素晴らしい深みがあります。
一人では太刀打ちできなくとも、それを教会の皆様と共に味わえるのはなんと幸いなことでしょう。
詩篇46篇の最初に「コラの子」とあります。これは砂漠の40年間にあった話に遡ります。父親のコラが「モーセを出エジプトの民のリーダー」にたてたことを不服に思い神に逆らいます。神はそれを放置せず、愛の神は断腸の思いで、200万人にも達しようとする流浪の旅の規律を正すためにコラを死に至らせます。しかし神はその咎を子に着せることなく、かえって詩篇でレビとして用いられます。たった一言「コラの子」と記されているだけで、流浪の民であったときの悲しい出来事と、そして神の愛を思い起こさせます。
その神が、御子キリスト・イエスの尊い贖いの血と十字架によって、神と私たちを和解させ、今まさに神の御前に私たちお一人お一人を召しています。何という恵みでしょうか。
新約聖書の話です。嵐の中、小舟で今にも船が沈みそうなとき湖面を主イエスが歩いて来られ、弟子たちに「平安あれ」と御言葉をおかけになります。私たちの人生もこの小舟のように今にもお終いになりそうなときが何度もあったはずです。その度にその試練を乗り越えられたのも、またさらに信仰が深まったのも「平安あれ」という神の守りがあったことをお気づきになりませんか。
神が「平安あれ」とおっしゃるのですから、私たちは感謝して「静まって」神と祈りをもって交わりましょう。神との交わりは「祈りです」騒がしい日常の中にあるのですからら神の静まれという御言葉を恵みとしましょう。忙しい時こそ「静まる」必要があります。休息は、神の御前に静まるとき「安息」昇華されます。神が与えてくださる安息は「神を知る」ときなのです。安息日は何をする日ですか? 礼拝の時です。主イエスも父なる神とお話になるとき、弟子からも離れて、お一人で祈られました。そして勝利するものとして、十字架に向かわれました。イザヤ書の40章にあの有名な御言葉があります。
「あなたは知らなかったか、あなたは聞かなかったか。主はとこしえの神、地の果の創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい。 弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる。 年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる。 しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。」(口語訳聖書)
静まって、神の業、力、愛を知りましょう。生きる力がみなぎってきます。
初めて自分で聖書を読み始めたとき、多くの方が新約聖書の福音書、あるいは創世記1章1節からお読みになるのではないでしょうか。四福音書は手垢のつくほどお読みになられても、そして長いクリスチャン生活をしていても、教会の礼拝メッセージでもなければご自身で聖書の詩篇を味わう方は少ないのではないでしょうか。主イエスは自らメシアであることが聖書の中で証しされているとお話になったとき「モーセの律法、預言者の書、そして詩篇」をおあげになりました。(ルカ24:44)それほど大事な聖書の箇所でありますが、やはり詩ですから、内容が抽象的であったり、理論的に筋道の通った読み物ではないのでわかりにくいところです。また本来、メロディーがあり奏楽の伴奏のもとに歌うものですから、メロディーも奏楽も無ければあまり面白くないのは当然です。それでも詩篇には味わい深い素晴らしい深みがあります。
一人では太刀打ちできなくとも、それを教会の皆様と共に味わえるのはなんと幸いなことでしょう。
詩篇46篇の最初に「コラの子」とあります。これは砂漠の40年間にあった話に遡ります。父親のコラが「モーセを出エジプトの民のリーダー」にたてたことを不服に思い神に逆らいます。神はそれを放置せず、愛の神は断腸の思いで、200万人にも達しようとする流浪の旅の規律を正すためにコラを死に至らせます。しかし神はその咎を子に着せることなく、かえって詩篇でレビとして用いられます。たった一言「コラの子」と記されているだけで、流浪の民であったときの悲しい出来事と、そして神の愛を思い起こさせます。
その神が、御子キリスト・イエスの尊い贖いの血と十字架によって、神と私たちを和解させ、今まさに神の御前に私たちお一人お一人を召しています。何という恵みでしょうか。
新約聖書の話です。嵐の中、小舟で今にも船が沈みそうなとき湖面を主イエスが歩いて来られ、弟子たちに「平安あれ」と御言葉をおかけになります。私たちの人生もこの小舟のように今にもお終いになりそうなときが何度もあったはずです。その度にその試練を乗り越えられたのも、またさらに信仰が深まったのも「平安あれ」という神の守りがあったことをお気づきになりませんか。
神が「平安あれ」とおっしゃるのですから、私たちは感謝して「静まって」神と祈りをもって交わりましょう。神との交わりは「祈りです」騒がしい日常の中にあるのですからら神の静まれという御言葉を恵みとしましょう。忙しい時こそ「静まる」必要があります。休息は、神の御前に静まるとき「安息」昇華されます。神が与えてくださる安息は「神を知る」ときなのです。安息日は何をする日ですか? 礼拝の時です。主イエスも父なる神とお話になるとき、弟子からも離れて、お一人で祈られました。そして勝利するものとして、十字架に向かわれました。イザヤ書の40章にあの有名な御言葉があります。
「あなたは知らなかったか、あなたは聞かなかったか。主はとこしえの神、地の果の創造者であって、弱ることなく、また疲れることなく、その知恵ははかりがたい。 弱った者には力を与え、勢いのない者には強さを増し加えられる。 年若い者も弱り、かつ疲れ、壮年の者も疲れはてて倒れる。 しかし主を待ち望む者は新たなる力を得、わしのように翼をはって、のぼることができる。走っても疲れることなく、歩いても弱ることはない。」(口語訳聖書)
静まって、神の業、力、愛を知りましょう。生きる力がみなぎってきます。
by katusikakyoukai
| 2019-06-23 14:41
| 旧約聖書 詩篇