2019年 04月 29日
再会の希望 三好邦夫伝道師 |
イースターから一週間経ちましたが、本日のメッセージは復活後の弟子たちの動きについて焦点を当てます。聖書解説に入る前にアドバイスがあります。それは「もう一人の弟子」がヨハネによる福音書に登場しますが多くの聖書学者は使徒ヨハネのことだとしています。しかし私たち信徒がデボーションの中でヨハネによる福音書を読むときは、「もう一人の弟子を自分のこととして読む」ことを是非お勧めします。二千年前の出来事ではなく、今を生きる私たちに主イエスの十字架の苦難や痛み、神の深い愛が実感できるからです。
さて聖書に入りますが、主イエスが十字架に架けられて死なれ、墓に葬られ、3日目の週の初めの日(日曜日)まずマグラダのマリヤが墓に向かいます。しかし墓を塞いでるはずの大きな石が取りのけてあります。それを彼女はすぐにペトロともう一人の弟子のところに告げに行きます。
墓にさっそく三人は墓に向かいますが、ペトロともう一人の弟子は墓が空と分かるとすぐにそこを立ち去ります。マグラダのマリヤはそれでもなおそこに残り、泣きながら主イエスを探し求めるのです。神はこのような者のしつこいほどに主を慕い、追い求める者の祈りを聞かれます。それは人の努力による祈りだからではなく神の憐れみによる神の応答だり、また神は人の心の中を見られるからです。
彼女は主イエスに全てを捧げて従ってきました。十字架の主イエスの死が永遠の別れであるなら、これから生きていく糧も術も何も無いのです。そのような者のところへまず最初に主イエスは現れました。そして平安を与えられてのです。聖書に出てくる彼女のように主イエスに付き従った女性が、その後、飢えて死んだという記載はどこにもありません。(参考:創世記16章や21章に登場するハガルを顧みられる神の愛)神の人智を超えた愛が兄弟姉妹を互いに思う愛となり、互いに支えあいながら、信仰に立って御言葉に従い主イエスにある平安のうちに生きていったのでしょう。
その後、次の週の初めの日(日曜日)に、主イエスを迫害し殺した者たちを恐れて部屋に隠れ、集まっていた男たちの弟子の真ん中にイエスは現れます。ペトロをはじめこの弟子たちすべてが十字架の主イエスを裏切ったのです。決してイスカリオテのユダだけが裏切ったのではありません。彼は全て「落ちこぼれの信仰者」でした。しかしそうでありながら主イエスは彼らを顧みられ、愛し、平安を与えました。
主イエスとの再会の希望は、優れた信仰者と思える者にも、また罪多き落ちこぼれと思える者へも叶えられるのです。私たちが主イエスを愛するのではなく、まず主イエスが私たちを愛して救ってくださるからです。神が愛してくださるからクリスチャンに落ちこぼれはいないのです。それに甘えてはいけませんが、自分の信仰を失望して、捨て去ることがあってはいけません。
さて次は、彼らは主イエスが再会を約束したガラテヤに向かいます。彼らの信仰はまだまだ未熟です。すぐに主イエスと再会できないなると過去の慣れ親しんだ生活に戻ろうとします。これは日曜日にせっかくクリスチャンの心を回復したのに、もう月曜からは神第一ではなく、仕事第一、世間の価値観第一の者に変わるのと似ていますね。その‘一方でクリスチャンの心の上にビジネススーツを着てバリバリ仕事をする者もいます。あなたはどちらですか?
さあ話を聖書に戻しましょう。当時ローマの支配下にあったのでガリラヤ湖はティベリアス湖と呼ばれました。その湖にペトロをはじめ弟子たちは漁に向かいます。主イエスを見失っては、たとえプロフェッショナルな漁師といえども魚が取れません。そこへ主イエスが来られます。再会の約束が叶えられて、再会の希望が成就します。主イエスが命じるままに網を湖に打ちます。するとどうでしょう、網が破れんほどの魚が取れました。この不思議な出来事でペトロは主イエスと再会します。しかし彼は、主イエスの前に自分の裏切りの罪を恥じます。ペトロは自分の罪だらけの裸の姿が見せられなかったのです。服を脱いで湖に飛び込むべきところをかえって罪を隠すように服を着て水に入りました。あたかも創世記3章で語られた善悪の知識の実を食べて罪が人に入り、神の足音で神の近ずく気配を感じると木々の間に身を隠したアダムとエバに似ていますね。神の前に出ると、信仰者は自分の罪を知り、恥じてかえって神から隠れようとします。現代の自分に当てはめましょう。洗礼を受けて罪が清められたはずなのに、かえって罪深い自分に気づく。むしろ洗礼前より状況がひどくなっていると思えて仕方ない。聖書がなかなか読めない。信仰の不十分さを感じる、ということがありませんか。それは、実はあなたが信仰を持ち始めた証なのです。神を知るとペトロやアダムやエバのように自分の罪を感じて神から隠れようとします。しかし是非その時は隠れないでください。それは繰り返すようですが、信仰があなたの中で育っている証拠なのです。神はあなたの心の弱さも肉体の弱さもご存知です。それでもあなたを顧みて、愛してくださいます。
聖書の中の主イエスも、この裏切り者のペトロに、さあ一緒に食事をしようと呼びかけます。主イエスの方からあなたへ愛の手が伸ばされるのです。大漁に獲れた魚が網を破らなかったように主イエスのくださる希望も約束も祝福も恵みも破れること、失望して終わることはけっして無いのです。
永遠の命をいただいたクリスチャンに落ちこぼれはなく、主の再会の約束を希望を持って信じましょう。主に望みをおけば失望に終わることも、落ちこぼれのクリスチャンに終わることも無いのです。アーメン
さて聖書に入りますが、主イエスが十字架に架けられて死なれ、墓に葬られ、3日目の週の初めの日(日曜日)まずマグラダのマリヤが墓に向かいます。しかし墓を塞いでるはずの大きな石が取りのけてあります。それを彼女はすぐにペトロともう一人の弟子のところに告げに行きます。
墓にさっそく三人は墓に向かいますが、ペトロともう一人の弟子は墓が空と分かるとすぐにそこを立ち去ります。マグラダのマリヤはそれでもなおそこに残り、泣きながら主イエスを探し求めるのです。神はこのような者のしつこいほどに主を慕い、追い求める者の祈りを聞かれます。それは人の努力による祈りだからではなく神の憐れみによる神の応答だり、また神は人の心の中を見られるからです。
彼女は主イエスに全てを捧げて従ってきました。十字架の主イエスの死が永遠の別れであるなら、これから生きていく糧も術も何も無いのです。そのような者のところへまず最初に主イエスは現れました。そして平安を与えられてのです。聖書に出てくる彼女のように主イエスに付き従った女性が、その後、飢えて死んだという記載はどこにもありません。(参考:創世記16章や21章に登場するハガルを顧みられる神の愛)神の人智を超えた愛が兄弟姉妹を互いに思う愛となり、互いに支えあいながら、信仰に立って御言葉に従い主イエスにある平安のうちに生きていったのでしょう。
その後、次の週の初めの日(日曜日)に、主イエスを迫害し殺した者たちを恐れて部屋に隠れ、集まっていた男たちの弟子の真ん中にイエスは現れます。ペトロをはじめこの弟子たちすべてが十字架の主イエスを裏切ったのです。決してイスカリオテのユダだけが裏切ったのではありません。彼は全て「落ちこぼれの信仰者」でした。しかしそうでありながら主イエスは彼らを顧みられ、愛し、平安を与えました。
主イエスとの再会の希望は、優れた信仰者と思える者にも、また罪多き落ちこぼれと思える者へも叶えられるのです。私たちが主イエスを愛するのではなく、まず主イエスが私たちを愛して救ってくださるからです。神が愛してくださるからクリスチャンに落ちこぼれはいないのです。それに甘えてはいけませんが、自分の信仰を失望して、捨て去ることがあってはいけません。
さて次は、彼らは主イエスが再会を約束したガラテヤに向かいます。彼らの信仰はまだまだ未熟です。すぐに主イエスと再会できないなると過去の慣れ親しんだ生活に戻ろうとします。これは日曜日にせっかくクリスチャンの心を回復したのに、もう月曜からは神第一ではなく、仕事第一、世間の価値観第一の者に変わるのと似ていますね。その‘一方でクリスチャンの心の上にビジネススーツを着てバリバリ仕事をする者もいます。あなたはどちらですか?
さあ話を聖書に戻しましょう。当時ローマの支配下にあったのでガリラヤ湖はティベリアス湖と呼ばれました。その湖にペトロをはじめ弟子たちは漁に向かいます。主イエスを見失っては、たとえプロフェッショナルな漁師といえども魚が取れません。そこへ主イエスが来られます。再会の約束が叶えられて、再会の希望が成就します。主イエスが命じるままに網を湖に打ちます。するとどうでしょう、網が破れんほどの魚が取れました。この不思議な出来事でペトロは主イエスと再会します。しかし彼は、主イエスの前に自分の裏切りの罪を恥じます。ペトロは自分の罪だらけの裸の姿が見せられなかったのです。服を脱いで湖に飛び込むべきところをかえって罪を隠すように服を着て水に入りました。あたかも創世記3章で語られた善悪の知識の実を食べて罪が人に入り、神の足音で神の近ずく気配を感じると木々の間に身を隠したアダムとエバに似ていますね。神の前に出ると、信仰者は自分の罪を知り、恥じてかえって神から隠れようとします。現代の自分に当てはめましょう。洗礼を受けて罪が清められたはずなのに、かえって罪深い自分に気づく。むしろ洗礼前より状況がひどくなっていると思えて仕方ない。聖書がなかなか読めない。信仰の不十分さを感じる、ということがありませんか。それは、実はあなたが信仰を持ち始めた証なのです。神を知るとペトロやアダムやエバのように自分の罪を感じて神から隠れようとします。しかし是非その時は隠れないでください。それは繰り返すようですが、信仰があなたの中で育っている証拠なのです。神はあなたの心の弱さも肉体の弱さもご存知です。それでもあなたを顧みて、愛してくださいます。
聖書の中の主イエスも、この裏切り者のペトロに、さあ一緒に食事をしようと呼びかけます。主イエスの方からあなたへ愛の手が伸ばされるのです。大漁に獲れた魚が網を破らなかったように主イエスのくださる希望も約束も祝福も恵みも破れること、失望して終わることはけっして無いのです。
永遠の命をいただいたクリスチャンに落ちこぼれはなく、主の再会の約束を希望を持って信じましょう。主に望みをおけば失望に終わることも、落ちこぼれのクリスチャンに終わることも無いのです。アーメン
by katusikakyoukai
| 2019-04-29 14:46
| 新約聖書 ヨハネによる福音書